ことばは道具か、心臓か
外国語大学を休んで海外で暮らしていた時、言葉は道具だと思っていた。
自分の拙い発音や語彙力では教科書の文例のような一言では通じない。しかし知っている限りの単語や大きな声で相手に迫れば、何とか通じたりする。それは小さなナイフで大木を切り倒すのに似ていると思っていた。
時が経って10余年後、かつて暮らした街から民主主義が消え、現地からデモの写真が届くようになった。
平和的なデモ参加者が掲げる横断幕には、英語ではなく、あの頃私が苦しみながら勉強した丸い文字が刻まれていた。
あらんかぎりの声で、怒りを、悔しさを、無念を、希望を叫ぶ時、あの優しい人たちはあの言葉を話すのだと思った。言葉は心臓だと思った。
さて、多和田葉子の『地球にちりばめられて』は、そんな道具のような心臓のようなことばの不思議を描き出す小説である。
主人公は留学中に故郷の島国が消滅した女性。彼女が地球のどこかにいる自分と同じ母語話者を探す物語であり、彼女が道中でさまざまな「ことば」を話す仲間と交流する群像劇である。
システマチックに作った独自言語を操る主人公が、もう一度母語話者同士で話したい、と考えるのは、言語と自分のドライでウエットな関係性を目の当たりにするようだ。
一方で読み進めながら、自分の身体とことばが分解されるような感覚を覚えた。
自分は思った通りに話しているのか?もしかしてことばに話をさせられているんじゃないか?
主人公たちと一緒に、ことばと言語と自分をめぐる深淵な旅に出られる一冊。
さよなら、津田沼パルコ
ジーパン
怖い顔のプリントされたTシャツ
内臓飛び散らしたみたいな謎ペイズリーのシャツ
スニーカー
ミャンマーの民族衣装 数セット
リクルートスーツ
これだけ持って、オフィスカジュアルの会社に入社するために上京したのは、貧乏学生生活をやっと終えた23歳の春であった。
貧乏学生がサラリーマンになって突然豊かになるはずもなく、通勤定期の立て替えに背筋が凍るような財布事情の中、会社員生活の幕開けは、着られる服が足りない事に悩む日々の始まりでもあった。
上京したと浮き足立つ余裕はなく、会社と千葉の単身者用アパートを往復するのがやっとの生活。
そんな私に、ギリギリ届きそうな夢を見せてくれたのが、住まいの数駅先の津田沼パルコだった
無印良品とnatural beauty basicのセール品を少しずつ買い足して、何とか5営業日×2シーズン、困らずに過ごせる服を徐々に揃えた。
2シーズンというのは夏と冬だ。貧乏人には春服と秋服は贅沢品なのだ。
結局、東京に通勤を始めてから単身赴任が始まるまでの十数年、千葉のあの辺りに転々と住み続けたので、社会人の私の生活史は、津田沼パルコと分かち難く結び付く事となった。
例年期末に取引先を訪ねる全国出張が入るのだが、ワンシーズンごとにスーツのサイズが上がるので、毎年冬ボーナスを使ってオリヒカでスーツを新調するのが恒例になったこと。しかし年に数回しか着ない服とケチって売れ残りのセール品から選ぶために、クセの強いスーツばかり着るハメになったこと。
第三舞台の封印解除&解散公演のチケットを買うために開店前からチケットぴあに並んだものの、爆速でソールドアウトして目を剥いたこと。
結婚式に招待される事が増え、ドレスセット一式を買ったあと、それに似合うメイクをオルビスで施してもらったら、彼氏に絶賛されて嬉しかったこと。
気に入った定価の靴を二足衝動買いして、紙袋を手渡すダイアナの店員さんに見送られた時、かつて自分が思い描いていた人並みの豊かな生活を手に入れたと気が付いたこと。
同棲を始めた彼氏と津田沼の安居酒屋で昼酒した後に無印良品に行って、こんなソファが欲しいねえ、と微笑みあったこと。
北野エースで買った2本1980円のワインとビラーニグルメセットを通勤カバンに突っ込んで、夫がご馳走をこさえて待つ家に帰るのが、金曜日の定番になったこと。
『梨泰院クラス』にハマってジャンモにチャミスルを買いに行ったこと。
....
どこまで時を遡れば、津田沼パルコが閉館する未来を止められるのだろう、と、最近よく考えるのだ。
もしかしたら...貧乏でケチな新米会社員に、手に届く夢を見せてくれていた時、すでに津田沼パルコは圧倒的な煌めきを少しずつ失っていたのかもしれない。
庶民が想像も付かない豊かさ、イマジネーション、粋、そう言ったものを、少しずつ削ぎ落として、だんだん普通の商業施設になってしまった結果の、今なのではないか。
思えば私が初めて津田沼パルコを訪れたのは、ミニシアターが無くなってすぐの頃だった。
津田沼パルコで「選択できる」ようになることを通じて、自分が社会人として安定していく実感を覚えたが、
「小さくまとまるな」と、本当は喝を入れてもらいたかった。
それでも...上京して右も左もわからなかった私の、時にお姉さんとして、友だちとして、パートナーとして、いつもそこに居てくれた津田沼パルコ。
寂しいよ...。
津田沼は、パルコを失ってどうなってしまうんだろう。
人は増え、それなりに便利だけど、一つの時代が終わるんだな。
ありがとう。
さようなら。
津田沼パルコ。
追悼に代えて 『NHKスペシャル取材班、「デジタルハンター」になる NHKミャンマープロジェクト』レビュー
以下は、別の機会に書いた、NHKミャンマープロジェクトの講談社現代新書『NHKスペシャル取材班、「デジタルハンター」になる』の感想である。
2023年2月1日でミャンマーのクーデターから2年となる。
何か言いたいけれど、悲惨な状況を前に何も言うことができない。
せめて、2021年に感じた事を、今もう一度振り返りたいと思って転載する。
これは薪であり胆である。
ミャンマーに「春」が来るのはこれから。
クーデターが起きて以降に日本で出版されたミャンマーに関する本を順次読んでいるが、本書が今のところ1番、今のミャンマーを知るための「初心者向け」だと断言できる。
よく夫に「君が読んでるその本は俺でも分かるかな」と訊かれるのだが、考え込んでしまうのだ。
面白いのだけど、ちょっと著者の主張が独特過ぎて、これから入ると歪んだミャンマー観を持ってしまうかも...とか、ミャンマーに関する知識を網羅的に得られるが、退屈かも...とか。
何も夫も、突然ミャンマー通になりたい訳ではなかろう。パートナーの悩み苦しみに寄り添うために、「今」のミャンマーを知りたい、と思ってくれてるんだろう。
そんな事を念頭に本を読みがちなので、本書を読んだ時、これだ、と思った。
分かりやすく、端的。そして人の熱が感じられる。
学者も政治の専門家も描き出し得ない「今のミャンマー」に迫る内容。
これがジャーナリズムの本気か、と思った。
本書は二本の軸で構成されるルポルタージュである。
ひとつは、コロナ禍で海外取材のできない状況でNHK取材班がOSINTという最新技術に手を伸ばし、モノにしようと奮闘する物語。
OSINTとは、オープンソースのデジタルデータを元に現地で何が起こったかを分析する技術の総称である。
庶民的で下世話な言い方をすれば、「ハイレベルなネトスト」と言った所だろうか。
SNSで拡散される写真や動画を分析し、それがいつ、どこで撮られたものかを突き止める。そこに映り込んだ情報を元に、現地で起こった事件の証拠を探し出す。
脚で、唯一無二の情報を探し出し、それを囲い込む時代から、部屋で、世界に共有された情報を、皆で分析して分かち合う時代へ。ジャーナリズムが迎えている大きな時代の転換に、NHK取材班と共にダイブするような感覚で読み進めた。
本書のもうひとつの軸は、2021年2月にミャンマーで起こったクーデターである。
クーデターの報を聞いた市民は、しばらく呆然とし、そして猛然と立ち上がった。その手にスマホを持って。
国軍がデモ隊に実弾の水平射撃を始めた時、その弾で市民が撃ち抜かれた時、兵器で町の殲滅を図った時、勇気を出してスマホのカメラを向け続けた人がいた。
SNSで拡散されたその命懸けの情報をNHK取材班が必死に分析し、国軍の許されざる蛮行を暴く、それが本書の後半の展開である。
ミャンマーをダシにしたNHKの自分語りだったら嫌だな、と思って読み始めたが、それは杞憂であった。
ミャンマーの悲劇を伝えたい、というジャーナリストの矜持が伝わってきた。
......
自分なりに、心を整理するために本を読んだりニュースを見たりしているが、
本書でクーデターが起きてから死者が増え始めた頃の描写を読むのに、ボロボロ涙が出るのを抑えられなかった。
知識でコントロールできる感情というのは、所詮精神の表面だけなのだなと思った。
お前ら、ほんの10年前まで軍事独裁政権下だったのに、あの手この手でデモの熟練技術や新基軸を見せてくるな!?どこで学んだのよ?!と思った頃。
まだ間に合う、どうか平和な日常が戻って欲しいと祈った頃。
死者が増え続ける現在。
悲惨なニュースに接するたびに、心に沈澱していった無念や悔しさが、まざまざと思い出された。それは本書の力でもあるかもしれないが。
本書を読み終えた時、やはり泣いてしまった。
OSINTを使ったジャーナリズムが、知と熱だけのなし得る、権力に対する強烈なカウンターである、という事を理解した上で、
手ブラでデモに参加する、生活を掛けてストライキする、そして、そのせいで殺されたら、それが理不尽な殺人である事を証明するために証拠集めをする、
それだけが市民にできる抵抗なの?
地獄だ。どこに向かっても。
2020年に観たお気に入りインド映画3作
忘備のためにも、駆け込みで締めくくりの記事を書いておこう。
第1位『Street Dancer 3D』
旬の役者を揃えたお気楽ダンスバトル映画かと思いきや、印パ問題、移民のアイデンティティ、そして不法移民と社会的なイシューを盛り込んだ上で、ド派手な娯楽映画に仕上がっている。観たいもん、全部観せたる!という作り手のサービス精神が最高な一作。
『Street Dancer 3D』ではシュラッダー・カプールが威勢よく人情深い、味のある理想的なリーダーを好演。小柄で可憐な女優さんで『きっと、またあえる』や『Stree』では美しく皆んなが憧れるマドンナ役がハマっていたが、私はこの作品の役が1番好き。バキバキにアイラインを引いた目で煽ってくる姿が凛々しく格好良かった。
もう1人の主演であるヴァルン・ダワンはお気楽青年の前半に苦悩する後半と、やや魅力に欠けるキャラクター。でもヴァルンは「最初調子いいんだけど、自分の力だと思ってたものが、自覚せず優遇されてただけだという事に気付いて懊悩する役」がすごく良い。
お育ちもよく容姿にも恵まれてるのに、ああいう役をバチッとできるのは次世代のスターだな、と思う。マッチョだけではなく助演もできるのがスターだと思うのよ。
第2位『WAR ウォー!!』
ボリウッドが誇るアクションスター2人を主人公にした、とにかくド派手な作品。
ボリウッド的ハイコンテクストなサービスシーンもあるので日本でウケるか?と心配していたが、とにかく派手さと俳優の顔の良さの2点突破で日本にカチコミをかけてきた。
これは何度も呟いたが、大スターで憧れの先輩であるリティクを立てる形にまわったタイガー・シュロフが、キャリアベストの怪演を見せたのが本作の最大の見所だ。
タイガーはダンスもアクションも今や同世代ナンバーワンを超えたボリウッドオンリーワンの存在感を放ちつつある。しかし一方で役柄がワンパターンになりがちで、演技もちょっと大味な所が弱点のように見えていた。
憧れの大スターとの共演で新たな扉が開かれたような気がするので、もっと色んな役をやって欲しいなと思う。
第3位『LUDO〜4つの物語〜』
終わらない運ゲーとして有名な(?)ボードゲームをモチーフにしたブラックコメディ。
SEX動画が流出した新婦とその元セフレ、出所したゴロツキと家出少女、うだつの上がらないサラリーマンと看護師、チンピラと子持ちのマドンナの物語が、大金を入れたトランクとギャングの親玉を巡って交差する。
地味かと思って期待していなかったのだが、「こういうシーンが観たくて映画を観てるんだよね〜!」という良いシーンが怒涛のように溢れてくる痛快作。良い映画シーンの福袋状態。
ブラックコメディとされているが、ホロリとした人情話もあり、登場人物全員がマヌケでゆるい笑いが絶えない。
キャラクター一人一人がちゃんと個性と人間性を持って描かれるので「どこかで観た映画のツギハギ」にならず、どうなっちゃうの〜!?とドキドキしながら見守った。
どの出演者も独特の存在感をもって好演しており、『ダンガル』の女優2人が全然違う雰囲気で出てるのはびっくりした。
総括
今年は人生で十指に入る作品!というのには出会えなかった。韓国ドラマ『愛の不時着』にどハマりしてから、インド映画以外の作品も積極的に観るようになったので、観た作品も例年より少ないかも。
来年はもっと映画館で映画観れたらいいな〜。映画は映画館で観るのが1番いい、と強く感じた1年だった。
来年も「明日を今日より良いものにしてやる」というインド映画の熱に期待したい。
それでは良いお年を。
この漫画の酒のシーンが好きだった 2020年
旅先の知らない飲み屋で酒を飲むのが好きなんだが、今年は全然そういうことできなかった。そのフラストレーションからか、漫画の酒飲んでるシーンがすごく輝いて見えてね。今年読んだ漫画の中で、特に気に入ってる飲酒シーンを記録しておこうと思う。
永田カビ『現実逃避してたらボロボロになった話』のご近所飲み歩きシーン
現実逃避のための飲みすぎでアルコール性急性膵炎になった著者が、入院生活の中で創作意欲を取り戻していくまでを綴ったエッセイマンガ。
上のあらすじを読んでわかる通り、ここで描かれる飲酒は決してマネしてはいけないタイプのものである。しかし第一話に出てくる近所の飲み屋の魅力が垂涎物なのだ。
14時OPENの「笑顔のすてきな店員さんの作る濃い水割りがでてくるくんせい屋さん」って何それ、絶対通ってしまうやろ・・・!!!
他にもさらっと描写される「豆腐サラダとハイボール」とか「焼きエビ」が何故かむちゃくちゃ旨そうに見えたりと、5ページくらいの飲酒シーンがすごく輝いている。
結局筆者は退院してもドクターストップでお酒が飲めなくなってしまうんだけど、この描写を見ていると、メンヘラアラサーと自称する著者は、酒がもたらす酩酊よりも、酒の場が作り出すワクワク感が好きだったんじゃないかなあ。結局追いつめられて家でコスパを求めた宅飲みにスライドして、体を壊してしまうんだけど・・・。
筆者が酒とは別にワクワクを提供してくれる飲食物を見つけたら、それを題材にしたグルメエッセイを描いて欲しいな。
をのひなお『明日、私は誰かのカノジョ』5巻の馴染みのバーで飲んでるシーン
5巻から始まるエピソードの主人公の萌ちゃんは、バイトしつつ奨学金で大学に通うしっかり者だ。ファッションも生活も自分のスタイルが決まってるし、サークル仲間とセックスしてみたりと充実して見えるが、「自分は主人公ではなくモブだ」と考えて、何となくモヤモヤしたものを抱えている。そんな彼女がひょんな事からホストにドはまりしてしまい、あれよあれよという間に・・・・というお話なんだが、萌ちゃんがホストに狂う前、行きつけのバーで飲んでるシーンがとても良くて、結局コミックも買ってしまった。
内装はちょっとチープな感じだし、酒もつまみも種類はたくさんなさそう。でもマスター(ママ?)が感じよくて、居心地よさそうなんだよね。店員さんや他のお客さんと、ふとしたきっかけで話が弾むカウンター席のムードってプライスレスだよなー。2020年、飲み屋で知らん人と話す自由を我々は失ってしまったから余計にこの酒のシーンが輝いて見えるのよ。
美やお金や恋愛への女子の欲望を肯定的に描いた作品って、おそらくどの年代にもあると思う。私が10代の時は、何だろう。安野モヨコとか桜井亜美とか・・・???
『明日、私は誰かのカノジョ』は女子の欲望を描く作品の、ほんとに最新版だ。2020年代の空気感がいいし、登場人物の服や持ち物、お店なんかの描写のディティールが細かくて入り込んで読んでしまう。萌ちゃんどうなっちゃうのかなー、幸せになってくれー。もう母親目線で見てしまうわ。多分萌ちゃんよりそのお母さんのほうが歳近いし。
わたし、いつまで頑張ればいいの?
— サイコミ (@cycomi) 2020年9月18日
約束を破った担当ホストと
仲直りのために…
▼最新話が基本無料で読めるのはサイコミだけ!▼https://t.co/CXn1GGKoAP pic.twitter.com/ae9V0ADMmF
この漫画、本当に舞台が2020年で、コロナで大学が休みになったり、みんなマスクしてたりするのだ。このホストがマスクでシャンパンコールしてくるシーンのインパクトにやられて読み始めた。
藤本タツキ『チェンソーマン』3巻の新人歓迎会のシーン
『チェンソーマン』、友人に勧められて読み始めたのだが、ほんといい。こういう、何気ない日常パートのシズル感がたまらない。
公安のデビルハンターというファンタジーすぎる職業の面々の飲み会だが、そうそう、安居酒屋でやる職場の飲み会ってこうだよな~~!!という地に足の描いたリアル感。
食べたいもの、飲みたいものを口々に叫んでさ、グラスが溜まってきたら片付けてもらってさ、芋焼酎飲み始める奴がいてさ・・・。お座敷に座布団、メニューはパウチ加工してあって穴をあけて、輪っかで束ねてあるのよね・・・。机の上で箸袋がふにゃふにゃになってて・・・。そうそうそう。
仕事の酒が全部楽しいものとは言えないし、飲みにケーションなるものは淘汰されるだろうと思っているけど、こういう職場の飲みの場を、私は確かに愛していた。失って初めて気づいたよ。最後に職場の飲み会してから、もうすぐ1年とかになっちゃうよ・・・。
『チェンソーマン』、ほんとに面白い。無理に引き延ばしてグダグダになる事を恐れていたら、もう完結するみたいね。最近のジャンプはちゃんとストーリーに合わせて話が終わるんだね。いいことだ。
来年もほどほどに楽しくお酒を飲みましょう。
小さな星のように、影のように―二十一世紀ミャンマー作品集
東京オリンピックには興味がないし、夏には長めの休みを取って、今年は久しぶりにミャンマー旅行に行こう、なんて夫とずっと話していたのだが、春先からの騒動で、海外旅行など夢のまた夢、という状況になってしまった。
仕方ないとはいえ、かの国の空気を感じたくなり、久しぶりに南田先生の翻訳本を手に取った。
2008年から2104年の間に発表された16編の詩と、2002年から2014年の間に発表された14編の短編小説が収められている本書は、2011年の「民政移管」前後に書かれた、激動の時代の選りすぐりの作品集である。ミャンマー文学を日本語で提供できる人も場も限られているし、当時はある特定の要件に当てはまる外国人は、入国拒否されてしまう環境だった。そしてこの本の翻訳者である南田先生は、この頃はまさに入国できない時期が続いていたと記憶している。入魂の一冊と言っても過言ではないだろう。
愛を失う苦しみを綴った詩、SF、ユーモア、プロレタリアート、様々な日常の一コマなど、バリエーションに富んだ内容である。ケータイやインターネット、そして女の子の四文字名前、20世紀の文学では出てこなかった現代的なキーワードが印象的に配される。
私はリンタイの『青い心の人』という短編小説が気に入った。
主人公とある男の一晩の会話である。
週に何度か泊まりにやってくる「彼」が、ある日カメラを携えてやってくる。彼は一つの秘密を打ち明け、カメラを主人公に差し出し、ある依頼をする―――。
小市民のちょっとした日常を切り取った小説が多い中、生活の生臭さを一切感じさせないソリッドな雰囲気がかっこいい。
そして静かで不思議な物語だが、何となく洗練されたエロティシズムを感じさせる。この筆者の他の小説もぜひ読んでみたいと思った。
大学に上がって初めてミャンマー文学を読んだとき、主観を配して淡々と描写される日常風景や、ズダンと切り落とされるように終わってしまうストーリーを前にして、これは、私が今まで読んできた「物語」とは、かなり違うぞ、と戸惑ったものだった。
ミャンマー文学は、目の端なら光をとらえられていたのに、じっくり眺めようとすると見つけられなくなる小さな星のように感じられた。
それはビルマ、あるいはミャンマーの不遇な歴史と無関係ではないだろう。
本書の「解説にかえて」には、翻訳者によって、その近代史とビルマ文学の関係が簡潔に解説されており、こちらも見どころである。
ミャンマーが北朝鮮についで「報道の自由なき国」世界第二位になった2008年は、ちょうど私が現地に滞在していた時期だった。
誰それという大臣がどこそこを視察した、というニュースが連日1面を飾り、あとはネットを漂うカスみたいな海外ゴシップが並ぶ国営新聞をよく覚えている。新聞はそんな国営紙が二つだけだった。
厳しい検閲を潜り抜け、機能しないジャーナリズムに変わって異なる視座を読者に提供すること、ミャンマーの文学を私が難解だと思った理由は、ミャンマー文学が背負った重い使命と無関係ではないだろう。
ルーサンの『聖地にて靴と靴下の着用を厳禁する』という一編の詩には、ミャンマー文学を読み解くヒントが隠されている。
これは公共施設などに掲示されている注意書きや広告看板の文句を組み合わせた、現代的な詩である。
「本日ご利用の皆々様に幸いあれ」「手を出すな」「足を出すな」というどこにでもありそうな文句から、「きんまの唾を吐くな」「ここから先女性の金箔寄進を禁ず」という、いかにもミャンマーらしいキーワードの入ったものまで、4ページに渡って、メッセージがぎっしりと並べられている。こんな定型文を眺めているだけで、町の喧騒、寺院に入った時の足の裏の感覚、朽ちてゆく果実から漂う甘い香りが思い出されるので不思議なものだ。
この作品の注釈の一文に、翻訳者は以下の注釈を添えている。
本篇は公の場に実際に書かれている表示等を主として用いたコラージュである。禁止事項からはその行為が現実になされていることがうかがえる。
提示されたメッセージが、あえて語らないものは何なのか。
光ではなく、その下に落ちた影はどんなものか。
この詩の訳注は、ミャンマー文学全体にも当てはまる重要なカギだと思う。
解説では、民政移管後の2012年ごろから検閲が徐々に緩和されてきたという旨が書かれている。とはいえ今までの歴史を振り返れば、予断は許されないだろう。表現が自由を取り戻し、活気ある未来が来ることを願ってやまない。
中腰の筋力~藤子不二雄Ⓐ『少年時代』
「井上陽水の『少年時代』って、なんでそんなタイトルか知ってる?
『少年時代』っていう映画の主題歌だったからなんだよ。
その映画の原作小説を藤子不二雄Ⓐが漫画にしてて、それが素晴らしいんだ。」
と夫が言うので、ぜひ読みたい、と言って、実家から取ってきてもらった。
井上陽水の『少年時代』といえば、国民的な名曲として誉高い曲じゃないか。私は小学校の音楽の授業で習った記憶がある。
それが主題歌の映画の原作の漫画を、これまた国民的な漫画家が描いている。
もう「勝ち」しかないだろう。
聞けば、戦時中に疎開してきた少年と地元の少年たちの交流の物語だという。
失われた少年時代の思い出の儚さ…みたいな内容だろうか。
『スタンド・バイ・ミー』みたいな感じだろうか。『ニュー・シネマ・パラダイス』みたいな感じだろうか。あるいは魯迅の『故郷』みたいな感じかもしれない。
などとほのぼの切ないものをイメージしながら読み始めたら、全然違ってびっくりした。いや、大人になってから過ぎ去りし少年時代を懐かしむ・・・というモノローグもあるので、まったく違うわけではないかもしれないが。
昭和19年夏、主人公の風間進一は東京から富山へ疎開する。そこで進一はタケシという少年と親友になるが、級長であり同級生の少年達の中の権力者であるタケシは、学校では進一に冷たい態度をとり、支配下に置くようになる。二人きりの時の優しいタケシと学校での独裁的なタケシ。どちらが本当のタケシなのか、そしてタケシの支配に甘んじる自分自身の弱さに進一は悩み苦しんでいく。
読みながらまず思い出した漫画は『ライフ』だ。この主人公が追いつめられる感じ、すえのぶけいこの『ライフ』を思い出すわ。
『ライフ』と言えばゼロ年代のいじめ漫画の金字塔である。主人公がいじめを受けつつも自分を見つめ、最後はいじめに打ち勝つ青春ストーリー・・・かと思いきや、主人公を追いつめるいじめっ子が怖すぎて、中盤以降サイコスリラーみたいになってた少女漫画である。
しかも『ライフ』のいじめっ子マナミ様はパワープレイヤー(犯罪者ともいう)だったが、『少年時代』のガキ大将タケシはなかなか狡猾な知能犯である。飴と鞭を巧みに使い分け、周囲のガキをマインドコントロールする姿はゾクゾクさせられる。
一方で読む人をとにかくビビらせてやろうとか、怖い気分にさせてやろう、という描き手の意図を感じさせない妙に淡々とした雰囲気で、かえって凄みがある。その辺の子供を丁寧に書いたら鬼だった、みたいなテンションだ。
子供かわいいなあ、いじましいなあ、昔の日本人は優しかったんだなあ、素朴だったんだなあという雑な感想を一切否定するストーリーで、圧倒されてしまった。
この物語に出てくる子供たちはとにかくずる賢く空気を読む力に長け、そしてタフである。
疎開した主人公が最初に「友達」になるタケシは巧みな人心掌握術で村の子供たちを支配する、ガキ大将などという生ぬるい言葉では表現できない存在感だ。自分に益をもたらす輩に優しくしたかと思ったら、気まぐれに冷たく接し、しばらくしたら優しくしてやる。気に食わない者は手下にボコらせるが、ここ一番のケンカには自ら立ち、勝つために仕込みは怠らない。
主人公のシンイチをはじめ、取り巻き立ち達はなすすべもなく支配されてしまう。
タケシの腰ぎんちゃくとしておこぼれに与るやつ、軍門に下るやつ、下剋上を図るやつ、唯々諾々と従うだけのやつ、と子供たちの欲望の渦立ち込めるヘビーな春夏秋冬が立山を望む小さな村で繰り広げられる。
一方で主人公のシンイチはこの物語の中で、どうにもパッとしない存在感である。
東京からやって来たというちょっとしたアドバンテージは、早々にいじめのネタとして消費されてしまうし、都会から彼にもたらされる物品はトラブルのもとになりがちで、かえって彼に害を与えているようだ。
何より彼は物語を通じて、具体的に何かするという事が、ほとんどない。こと、少年漫画というジャンルから見れば、モブと言われてもおかしくない存在感なのだ。
情報や物資を握ってもそれを基に奸計をめぐらせることはないし、派閥争いに参加してヒエラルキー上位を狙ったりもしない。
じゃあ物語を通じて何もしていないのか、というとそうではない。
主人公はずっと懊悩している。
友達に突然冷たくされたとき、目の前の人が信じられなくなったとき、人の悪意に触れたとき、打ちのめされたとき、彼は悩み、考える。
ずっと悩んでいるというのは案外しんどいものだ。
社会の頂点に立つとか、むかつくやつをどうにかするとか、そういうことももちろん難しいしリスクもあるししんどいしことではある。でも、悩み、考え続ける事の精神にもたらすしんどさというのは、格別である。
目標も、目的も見えず闇の中を手探りで歩き続けるのに似ているかもしれない。あるいは中腰のままでいるようなストレスにも近いような気がする。
そしてそのつらさは外からは見えづらいものだ。ゆえに、案外簡単に放棄できる。考えることを放棄して、社会に準備されているゲームに興じるのは、ある意味では楽な事なのだ。
主人公シンイチは小柄でひ弱で泣き虫な少年だ。定義によってはモブに近い存在感である。でも見方を変えれば彼があの村で一番強かなんじゃないだろうか。