「パパが怒るわ」の先の物語 『シークレット・スーパースター』感想
2019年8月9日公開の『シークレット・スーパースター』というインド映画の試写会に当選し、一足早く鑑賞するという恩恵にあずかることができた。
これが非常に印象的な出来事だったので、
どこかにまとめて記録しておきたいと思い、ブログを立ち上げてしまった。
以下、『ダンガル』と『シークレット・スーパースター』の個人的な感想と、インド映画賛歌である。
ストーリーについては極力ネタバレを避けるようにしたが、『ダンガル』のほうは予告編には記載のない事項にも言及しているので注意して欲しい。
ただインド映画の面白さや熱量は実際に観ないと分からないものだ。こんな文章程度のネタバレは実作品のエネルギーに比べたらカスみたいなものなので、気にする必要はないとは思う。
1.『ダンガル』の話
あの映画の良かった所
『シークレット・スーパースター』の宣伝では、必ずと言っていいほど『ダンガル』という映画の名前が添えられているのを目にするだろう。
以下はそのあらすじである。
父の夢をまとった姉妹が
レスリングで世界に羽ばたく
壮大な逆転サクセス・ストーリー
インド映画の世界興収歴代第1位の座を奪取し、中国では『君の名は。』の記録のダブルスコアとなるモンスター級のヒットを樹立、今も各国で記録を更新中の話題の大興奮作。
圧巻の面白さと感動で人々の心をわしづかみにしたのは、レスリング一直線の熱血パパと2人の娘たちの実話。「巨人の星」の星一徹ばりの過酷な特訓を強いるパパに、「猛烈すぎる!」と驚いた観客も、因習、悪徳コーチ、挫折、世界の壁……いくつもの限界を、娘を支えながら共にブチ破っていくその姿に魂を燃やされる。やがて彼の真の目的が明かされた時、観る者の涙腺は決壊、クライマックス30分は爽快な涙が止まらない。
レスリングの国内チャンピオンになったものの、生活のために引退したマハヴィルは、金メダルの夢を息子に託すはずだったが、授かったのは、娘、娘、娘、娘──。やむなく夢は諦めたが、十数年後にケンカで男の子をボコボコにした長女ギータと次女バビータの格闘センスに希望を見出し、翌日から2人を鍛え始める。男物の服を着せ、髪を切り……暴走するマハヴィルの指導を見た町の人々は一家を笑い者にするが、父の信念は曲がらない。やがて2人は目覚ましい才能を開花させ始める──。
大変評価の高い作品で、キャストの熱演、迫力のある試合シーン、力強いシナリオなど、見所の多い映画である。
私はこの映画の良いところは、
「結局のところ、無理やり親に結婚させられるのと無理やり親にレスリングをさせられるの、どう違うのよ?」
という課題から目をそらさず、きちんと映画としての結論を出していたところだと考えている。
順を追って説明していこう。
これは予告編にも出てくるのだが、主人公が世間体無視のトレーニングを課す父親についてこぼした時、嫁に出される友達からかけられるこんな言葉がある。
「インドの娘はただ子供を産むだけの道具
でも あなたたちは違う
愛されている証拠だわ」
結婚式のシーンが見せ場として華やかに描かれるインド映画において、新婦のつぶやくこの台詞は、非常に印象的で重みのあるものだ。このシーン以降、主人公が腹をくくってレスリングの道をまい進する姿から、ストレートな映画のメッセージが伝わってくる。
でもだ。本当に結婚とレスリングには大きな違いがあるのだろうか。映画を観ていると世間を知らないお嬢さんに、親の価値観を押し付けていることには変わりないように見えるのだ。マハヴィルさん家の娘さんはほら、親譲りの才能を開花させることができたよ。でもそれって結果論で、たまたまラッキーだっただけじゃない?もしそうじゃなくて無理強いされたレスリングが人生に影を落とすことになったらどうするんだろう。と。
その問いかけに、この映画はひとつの結論を出している。と思う。
ある試合でピンチに陥ったとき、長女が思い出す父親の台詞がある。
「忘れるんじゃないぞ
俺は毎回お前を助けられない
実際に闘うのはお前自身だ
自分自身の力で乗り切れ」
短い上にただの指導の言葉のようだが、これは映画としての一つの結論が示唆されていると感じた。
つまりこの映画で父が娘に与えたのは、試合での勝利という目的や結果じゃなく、生きる力、人生の可能性そのものなのだと。ただ親の価値観を押し付けただけではないのだと。
存命の、しかも現役選手の半生を描いた映画である。さらに「インド」という国を背負った試合を描いている。作品としては、手に汗を握る試合シーンと勝利を熱く描けば満点のはずだ。しかしそれだけで良しとせず、持ち込んだ社会的なテーマにきっちり落とし前を付ける製作者の矜持に、私はしびれて涙を流した。
とはいえ、気になるところもあった
『ダンガル』には逆の意味で印象的な台詞がある。
事情があって離れて暮らすことになった長女が、少し華やかになって帰省した折に、母親のかける台詞である。
「パパが怒るわ」
これは個人的につらい台詞だった。
過剰な権力には弱い者を忖度させる力がある。
このお母さんが「私はそれはどうかと思うわ」と言わず、父親を主語にして娘をたしなめるのを見たとき、どうしても「父親という絶対的権力」の気配を感じずにいられなかった。実際のところ、この後父親は娘に「その格好は何だ!」みたいな叱責はしない。「髪を伸ばしたな」と声をかけるだけである。もしかして何か思うところはあるのかもしれないが、特に言わない。お母さん!気にしすぎちゃう?お父さん何にも言ってへんやん!とでも声をかけたくなってしまうのである。家庭内の平穏を願うお母さんの「父親への忖度」と、どうしても捉えてしまう。
この後の展開は緊張感があり映画の見せ場ではあるのだが、「古い戦術や指導」と「先進的な戦術や指導」の対立と父と娘の関係の変化に話がフォーカスされるため、この「母親の忖度」に象徴される父親の過剰にも見える「力」については、うやむやになってしまう。
家族のよくあるひとコマ、と割り切ることもできるが、高らかに女性の持つ力と可能性を謳いあげた本作の中にあって、ひとつの「弱み」のように私には見えた。
仕方のないことだとは思う。繰り返すが、実在で現役の選手とその家族を題材にした映画であり、父と娘のサクセスストーリーである。ここで「父」のあり方まで踏み込んで描くことは、いろいろ無理があるのだろう。惜しい。仕方がないが、残念である。
それが私の『ダンガル』への感想だった。ボリウッドファンにもかかわらず、大変評価が高く人気のこの作品にノリ切れないことに忸怩たる思いを抱きつつ、時間は流れていった。
そうして向かえた『シークレット・スーパースター』の試写会。私は感動の涙を流しながら驚いていた。それはまさに「パパが怒るわ」の先の物語だったからだ。『ダンガル』が拾いこぼした小さな種が、芽を出して育ったような、そんな作品だと思った。
2.『シークレット・スーパースター』の話
せっかくなので『シークレット・スーパースター』についてもあらすじを引用させていただこう。
インドに暮らす14歳の少女インシア(ザイラー・ワシーム)のただ1つの夢はインド最大の音楽賞のステージで歌うこと。しかし父親は、娘が学業に専念し、叶わない夢など見ないよう歌を禁じる。そこで彼女がとった策は、顔を隠した姿で歌った動画をこっそりとYOUTUBEにアップ。彼女の歌声はたちまち大人気となり、その話題はインドで最も力があるが若干落ち目の音楽プロデューサー、シャクティ・クマール(アーミル・カーン)との出会いをもたらすのだが・・・!?若き天才女優ザイラー・ワシームが、夢をあきらめない少女をみずみずしく演じ、『ダンガル』の二人が再タッグを組む本作は、『ダンガル』『バーフバリ』に続き、『バジュランギおじさんと、小さな迷子』を超えて、インド映画、歴代世界興収第3位を奪取(2019年4月現在)!世界中の人々を笑いと涙で包んで、夢を追う喜び、苦難を乗り越える強さを描く、サクセスストーリー!
映画『シークレット・スーパースター』公式サイト/2019年8月9日全国順次ロードショー より
この作品の主人公はインドの地方都市に住む女の子。暮らしぶりは悪くなさそう。衣食住には困らず、しっかりした教育も受けられているようだ。友達のように軽やかにおしゃべりできるお母さんはチャーミングで、年の離れたやんちゃな弟も何だかんだ言って可愛いみたい。テレビをああだこうだ言いながら見る姿はまさに「小さくて確固たる幸せ」という感じである。
しかしその幸せが維持できるのは、ある「枠」の中にいる時だけであることが、じわじわと分かってくる。それはまさに「パパが怒るわ」という壁で仕切られた小さな世界である。
「パパが怒るわ」の中に閉じ込められてしまうのはなぜなんだろう?
「パパが怒るわ」の向こう側へいくにはどうしたらいいんだろう?
にぎやかな笑いや心ときめく冒険にさりげなく、大胆に、『シークレット・スーパースター』は問いかけてくる。
そしてこれは、「インド」の「イスラム教徒」の「女の子」だけに投げかけられた問いかけではない。
この映画の問いかけは、身の回りの何かに実は必死に「忖度」しながら生きているすべての人へのメッセージだと私は感じた。
だからぜひ、日本でもいろんな人に観て欲しいと思い、このブログを綴っている。
アーミル・カーンのカメレオンぶりが炸裂しているとか、あそこで泣いたとか、そういう感想もいくらでも書けるのだが、今回は敢えてこれくらいに留めておきたい。
さいごに
『シークレット・スーパースター』の感想のはずが、『ダンガル』にばかり言及する記事になってしまった。
この記事で『ダンガル』を批判する意図はまったくない。あれは力のある映画だと思っている。今回の記事で引き合いに出したのは、私がこの二作を観たときに、「もっと先へ、もっと未来へ」と手を伸ばすインド映画のダイナミズムに触れたような気がして感激したからだ。
実際のところ製作者が どう考えているかは私には分からないが、『ダンガル』と同じ俳優を起用した上で、前作とは違った切り口から女の子の可能性について描いて見せたのを目の当たりにすると、作り手の映画の持つ力への自信と自負と誠意を感じずにはいられない。
演出にしろシナリオにしろ、インド映画の幅の広さ、多様さとエネルギーに触れられると思うので、ぜひ2作品見比べてみて欲しい。
理不尽を感じるというのは、暗く寂しいことである。
『ダンガル』には描き切れなかったものがあるんじゃないかと思ったとき、自分が重箱の隅をつつくようないやらしい人間に感じられてほとほと嫌になったものである。
自分はエンターテイメントを楽しむには繊細すぎるんだと思ったし、インド映画好きを名乗る資格もないのではないかと考えた。
しかし『シークレット・スーパースター』を観た時、「そうじゃないよ」と言われた気がしたのだ。この作品が、私の暗い気持ちを吹き飛ばし、人生捨てたもんじゃないぜと手を引いて暗いところから連れ出してくれたのだ。
新旧の価値観がぶつかった時の爆発的なエネルギーと、未来はもっと明るいという強い確信を感じたくて、インド映画を観続けている。
そして今回、『シークレット・スーパースター』を観て私はその気持ちを新たにすることとなったのだった。
過去のすばらしいインド映画がそうであったように、『シークレット・スーパースター』も「越境」の物語である。
インド映画お得意の、楽しくて豪快で爽快で、観終えた後に未来は明るくなるはずだと確信できるような作品だ。
ぜひお勧めしたい。
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