ネチのブログ

更新頻度は年一くらい

生命のフリーズ

10年くらい前に書いた日記をブログの引っ越し方々再掲する。

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兵庫県立美術館でやっているムンク展に行ってきた。

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理屈っぽく芸術鑑賞をするのが好きじゃないので全く予習なし。
ムンクの絵画をしっかりと目の前で鑑賞するのは初めてだったのだが、思っていたよりもずっと人間くさい作品を描いた画家だったのに驚いた。
もっとエキセントリックで人の感情移入を拒むような絵画を残しているものと思っていた。

特に「生命のフリーズ」という作品群は印象的だった。
ムンクって絶対恋愛で苦労したんだろうな...。と感じずにはいられない作品の数々。
夏の夜が不思議な光を帯びて感じられるほどの、恋の始まりの高揚感。そして、相手に振り回され、精気を吸い取られ、捨てられ、心に深手を負う、ムンク
途中から、絵に出てくる男性がムンクにしか見えない。
というか、絶対にムンクだろ。
絵から彼の慟哭が聞えるようだ。
この「生命のフリーズ」はずっと彼のアトリエに置かれ、どう並べて展示すべきかを、ムンクによって生涯模索され続けたらしい。
他の作品群が注文を受けて大学の講堂や食堂に飾られるために描かれたのに対し、「生命のフリーズ」は青春の渦中で、描かずにはいられなかった作品だったのかな、と感じた。


展示場のすぐ外にある、お決まりのグッズ売り場で展示作品の絵葉書を買うのが好きだ。
普段は保存用にしか購入しないのだが、今回は長期入院している祖母に送ろうと思い売り場を見ると、
男女の性愛、不安、絶望。。。。で埋め尽くされている売り場。
ムンクの代表作をグッズ化すればおのずとそうなるのだろうが、病床の祖母に送るのには植木の次に不適切なように思われた。
結局、唯一明るい色を用いていたマイナーな風景画をチョイス。
細かい字だと読めないかも、と思い大きな字で短いメッセージを書くと、バカっぽいビジュアルになった。
喜んでくれるだろうか...。

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20歳くらいの時に書いた日記だ。

当時は大阪に下宿している貧しい学生だったので、神戸まで行くのはずいぶん遠出に感じられたと記憶している。

祖母はその後回復することなく翌年亡くなった。私がミャンマーに居る時の事だった。

当時日本とミャンマーは精神的にずいぶん離れた場所で、家族は私を気遣って、葬儀が一通り落ち着いた後に訃報を伝えた。だからなんとなく亡くなった実感がないままだ。

今でもたまにふと「おばあちゃん元気かな」などと思う時がある。

 

高校生のスポコン、だけじゃない面白さ~『灼熱カバディ』紹介

私の枯れたマンガライフに

会社員になった位から、少年漫画をほとんど読まなくなってしまった。

自分と同じ年代の主人公が人生や配偶者との関係に悩んでる漫画ばっかり読んでるし、

なんなら最近は倉科遼の『女帝』とか熱をもって読んでいた。いや、おっさん漫画だけど、普通に面白かったんだよ。

そんな枯れ切ったマンガライフを送っていた私が、突然高校生が主人公のスポコン漫画にはまってしまった。

それが『灼熱カバディ』という、小学館のサイトで2015年から連載されている作品だ。

2020年3月時点で既刊13巻。現在も連載中である。 

灼熱カバディ 1 (裏少年サンデーコミックス)

灼熱カバディ 1 (裏少年サンデーコミックス)

  • 作者:武蔵野 創
  • 発売日: 2016/02/12
  • メディア: コミック
 

 連載中の漫画をレビューするというのは、ちょっと勇気のいることだ。

今後なんかうまくいかなくて、期待をよそに打ち切りになるかもしれないし、昨今の事例を見るにメディアミックスの際にいらん事して炎上する可能性もある。

そんなことになったらいたたまれない…と思いつつ、面白いマンガなので忘備もかねてブログに感想を書いておこうと思う。

 

あらすじと簡単な紹介

カバディはネタじゃない…熱いスポーツだ!

スポーツ嫌いの元サッカー有名選手・
宵越竜哉(高1)のもとに、
ある日『カバディ部』が勧誘に!

カバディなんてネタだろ(笑)」と
内心バカにしつつ練習を見に行くと、
そこではまるで格闘技のような
激しい競技が行われていて……!!!

amazon紹介文より

私は一般的な日本人よりインド映画を観ていると思うのだが、恥ずかしながらカバディがインドの国技だと初めて知った。

いやいや、インド映画のインド人、みんなクリケットばっかり見てるやん!むしろクリケットが国技かと思ってたくらいだよ・・・。

私が覚えてるインド映画のカバディって、『ディアライフ』の中でアーリヤー・バットとシャー・ルク・カーンが「カバディカバディカバディ・・・」と言いながら波と戯れるシーン位だった。それも美しく印象的だが、全く本編と関係のない一瞬のシーンである。

それくらいの印象しか持っていなかった自称インド映画ファンの私、まさか日本の高校生の部活動マンガでカバディを詳しく知ることになろうとは、夢にも思っていなかった。

カバディってみんな知ってる?私は上の映画のシーンを見たときに「カバディってなんだっけ、スポーツだったか…?」とふんわり思ったくらいだった。だいたいの日本人が、それくらいの印象しか持ってないんじゃないか。

いやむしろ、あまり言いたくないが、ちょっと馬鹿にしてるんじゃないか。

上に引用したあらすじにもやたらと「ネタ」という言葉が使われているが、第一話の主人公、元サッカーのエース選手だったヨイゴシのカバディへの反応はひどいものである。

 

見たことはないがネットとかでよくネタにされてる・・・「カバディ」と連呼して走るアホくさいスポーツだろ?

 

まあ所詮くだらないイロモノスポーツだしな・・・

 

カバディ・・・鬼ごっこか・・・やはりアホのやるアホくさいスポーツだな

 

ひどい言いようである。そんな「スマート」を信条とする主人公ヨイゴシがひょんなきっかけ(策略?)でカバディ部に入り、徐々にのめり込み、仲間と一緒に全国大会優勝を目指すのが、この『灼熱カバディ』というマンガである。

 

みどころその1:カバディの魅力が活かされたストーリー

たいていの日本人が知らないであろうカバディのルール、そして戦略や技。

一つ一つが丁寧に説明されており、そしてストーリーときっちりシンクロしているのが魅力である。

主人公のヨイゴシもカバディ初心者なので、一緒に驚き、時に突っ込みながらカバディ知識を深めていける。最初は「何人でやるスポーツなの?」というレベルから丁寧にストーリーに組み込まれており、スポーツに苦手意識のある私でも、苦も無く読み進めることができた。

これが野球とかサッカーが題材の漫画だとこうはいかないだろう。これについてはカバディを題材としたことが「勝ち」であるように思われる。

さらにカバディという競技の特性とストーリーの起伏が上手く絡まっており、題材で奇をてらっただけの漫画ではない。既刊13巻まで中だるみせず一気に読み進められてしまう。

カバディという競技は、ゴールではなく人から点を奪う。

 誰が点を取られたのか明確にわかる。

 だからこそ、誰の責任など口にするべきじゃない。

 原始的なようで品格を問われる。

 後悔は成長に必要な感情だが、自分の中にあれば充分だ。

 僕の涙の意味はこうさ。

 悔しくて泣けるほど、最高のチームだった。」 

ある選手が試合の後にチームメイトにかけるセリフだ。競技の特性と選手としての精神とチームメイトとの関係を一言で感じさせる名台詞である。

こういう競技の特性を活かしたセリフやシチュエーションが随所に盛り込まれており、読んでてグッとくるんである。

 

みどころその2:マイナーな競技、何ものでもない高校生

作品内のカバディの競技人口は、ストーリーの関係上、現在の日本のそれよりも多めに設定されているらしい。

それでも作品内のカバディというスポーツの立ち位置は微妙である。

元サッカー少年の主人公は大会の規模の小ささに驚き、カバディ協会の会長はメディアの注目を集めるために、他のスポーツで名を挙げた選手を餌に記者を集めたりしている。

そして読んでいて一番腹が立つのが、同じ高校の他の運動部員から「マイナー」「弱小」と見下されるシーン。競技としてもマイナーだし、主人公が入る部は当初公式戦に出られる人数も在籍しておらず、助っ人を入れて挑む公式戦では常に初戦敗退の弱小チームである。

もちろんこれは「フリ」でもある。見くびられている者がサクセスする姿は見ていて胸がすく。

サッカー部や野球部のメンバーや監督が主人公たちの試合を応援に来る、なんてシーンがあるのだが、このシーンを見た時の嬉しさというのは、「メジャー」なスポーツが題材の漫画ではあまり味わえないと思う。

そしてこの漫画、マイナーで立場の弱いカバディという競技が「社会的」に地位を確立していく様が、何ものでもない高校生たちの成長とリンクしているように見えるのだ。

それが読んでいて、なんだか美しいものを見せてもらったなー、という気持ちにさせられるのがとてもいい。*1

 

みどころその3:実力・戦略・メンタリティのバランス

スポーツにおける勝敗を描くとなると、主人公やチームの主力メンバーがどんどん実力をつけて、それを試合で発揮する様が見せ場になるものだろう。

しかしこの漫画、「強い選手のスーパーテクニック」と同じくらい「戦略」と「選手のメンタリティ」に描写の重心が置かれており、私のような枯れた志向の人間でもじっくり読ませるものがある。

すごい実力を持っていてもチームとしての戦略がダメだと勝てないし、チームとしての戦略が完璧でも、選手のメンタリティをケアしないとやっぱり勝てない。もちろんメンタリティが盤石でも、実力がないと勝てない。

この三つがいいバランスになって初めて勝てる、という「しばり」はこの漫画に一貫している価値観である。

卑近な話になるが、会社員をやって10年、この「しばり」は何となく馴染みがある。

組織でいいパフォーマンスをするというのは、この「しばり」の上でどうバランスをとるかにかかっているといっても過言ではない。

基本的にキラキラした高校生が熱い汗を流す眩しい漫画なのだが、そういう組織論みたいなものに突然肉薄してくるので、「わかるわあ・・・」と身につまされながらページをめくることも多い。

 

ここで読めるよ

灼熱カバディ、第一話はここで無料で読めるので、気になったらぜひどうぞ。

私はここで何冊分か話を試し読みした結果、コミックを一気に買ってしまった。

urasunday.com

カバディが題材のインド映画

カバディに興味が湧きだしたら、インド映画でも題材にしている作品が目に入るようになった。インド映画で取り上げられてないんじゃなくて、自分が興味ないときは目に入ってなかっただけなのかもしれない。

下は2020年1月にインドで公開された作品。

引退したカバディ選手が結婚出産を経て復帰するという筋書きだそうだ。トレイラーに漫画で観たスーパープレイがちょこっと移っており興奮した。日本でも公開されないかな。


Panga | Official Trailer | Kangana | Jassie | Richa | Dir: Ashwiny Iyer Tiwari | 24th Jan, 2020

 

 

 

*1:

すごい強い選手の父親がすごい強い選手だった、という設定が匂わされており、これはもろ刃の剣であるように思われる。

選手人口の少ない競技なので親子で強い選手、という設定はあまり違和感がないかもしれない。しかし上で書いた「カバディの普及と何ものでもない高校生の成長のシンクロ」という魅力がスポイルされてしまう恐れもある。できれば個人的に親子の因縁的なやつは、あんまり本編に絡んできて欲しくないな、と思っている。

遭難ドキュメント『離婚しそうな私が結婚を続けている29の理由』を読んだ

アウトドア関係の書籍には、「遭難ドキュメント」と呼べるようなジャンルが存在する。 

ヤマケイ文庫 ドキュメント 道迷い遭難

ヤマケイ文庫 ドキュメント 道迷い遭難

 

 

遭難したときにパニックになってはいけないというのは山登りの鉄則である。

冷静さを欠いた状態では正しい判断ができず、結果的に死に直結するような行動をとってしまうこともあるという。道に迷って谷筋に降りるとか、暗くなっても歩き回るとかそういうやつだ。

とはいえ突然訪れた初めて体験するトラブルに、いつでも冷静に対処できる人は少ないだろう。

遭難サバイバーの実例を事前に知っておけば、「もしも」のときにも少し冷静さを取り戻せるかもしれない。

遭難しない山はない、遭難リスクのない人はいない。

山に登る者すべてが遭難を想定して心がけをしておくべきである。

 

アルテイシア氏の『離婚しそうな私が結婚を続けている29の理由』を読んだとき、「これは遭難ドキュメントだな」と思った。

本書はアルテイシア氏のここ数年の生活に関するエッセイだ。

別に過剰にキラキラもギラギラもしていない普通の40代女性の子宮摘出だったり母親の死だったり、父親の死だったり、葬式だったり親の借金だったりがつづられている。そしてこの内容で信じられないが、とにかく細かく笑わせてくる。

 

とはいえ本書は「他人の不幸は蜜の味」的なのぞき見趣味のエッセイではないし、ひたすら面白おかしいことを書き連ねたギャグエッセイでもない。

人生で遭難したとき、私はこうして生還しました、という事が随所に書かれている。

 

本書ではまず人生における「遭難」が何なのかが示されている。

毒親や病気や借金はまだわかりやすいが、親切そうに近づいてきて自尊心を折ってくる輩や自由を奪う「世間の空気」も十分に「難」である、と気づかされる。

たしか山でも自分が遭難していることになるべく早く気付くことが大切とされていたはず。自分が遭難していることに気付かないままだと、対策できず最悪の場合死に至る。

 

本書にはさらに人生において遭難したときの対処法がたくさん載っているし、その対処法は山でのそれと通底するものがある。

何があっても冷静であること、人に助けを求めること、助け合える人と寄り添うこと。

 

このエッセイを読んで、目の前のトラブルを笑いに転化するというのはパニックを克服するいい方法なんだな、と気づくことができた。

私も人生でにっちもさっちもいかなくなったらまず笑い話にしよう。そんで夫とつまらん事でニヤニヤしながらやっていこう。

 

 とりあえずアルテイシア氏の夫氏いわく「オナラのできない家は滅びる」そうなので、積極的に家で放屁する生活を続けていきたいと思う。

富める者は無邪気に与え、奪う~『ガリーボーイ』感想

 

ガリーボーイ』ついに日本で公開

2019年10月18日(金)にランヴィール・シン主演のインド映画『ガリーボーイ』が日本で封切られた。

インドでの公開から半年ちょっと。インド映画が本国での公開と同じ年に日本でも封切られるというのは異例の早さである。

配給会社も力を入れて宣伝しており、先行上映となった9月のジャパンプレミアには監督のゾーヤー・アクタルと脚本担当のリーマー・カーグティーが登壇。また出演者からの日本向けのコメントが流され、ファンを喜ばせた。さすが、「願えば叶う」のツインである。*1

 

 私は2月の在日インド人向けの自主上映会、9月のジャパンプレミア、10月18日の封切り当日と都合3回にわたって本作を鑑賞する機会を得た。何度も観なければ理解できないような解りづらい映画ではないが、観るごとに感想が更新されていき、新たな視点を得られたので、ここに感想をまとめておこうと思う。

以下、致命的なネタバレは避けるが、少し内容に触れるので、鑑賞前の方は注意されたし。

 

 

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主人公に翼を与えた二人の存在

ガリーボーイ』はある青年の目覚めの物語である。インドに実在する二人のラッパーDivineとNaezyにインスパイアされ作られたと言われている。

ムラド(ランヴィール・シン)は、雇われ運転手の父を持ち、スラムに暮らす青年。両親はムラドが今の生活から抜け出し成功できるよう、彼を大学に通わせるために一生懸命働いていた。しかしムラドは、生まれで人を判断するインド社会に憤りを感じ、地元の悪友とつるみ、内緒で身分の違う裕福な家庭の恋人と交際していた。ある日大学構内でラップをする学生MCシェール(シッダーント・チャトゥルヴェーディー)と出会い、言葉とリズムで気持ちを自由に表現するラップの世界にのめりこんでいく。そして“ガリーボーイ”(路地裏の少年)と名乗り、現実を変えるためラップバトルで優勝を目指す事を決意する。

映画『ガリーボーイ』公式サイトより

 実際にインドはムンバイのスラムであるダラヴィにセットを立てて撮影されたというムラドの居住地の様子は圧巻である。小さな家が軒を連ね、人がすれ違うのがやっと位の小道がその間を縫うように走っている。

映画ではムラドの生活を通じ、貧しいということがどういう事かを具体的に提示して見せる。

それは狭い家に家族で暮らすことであり、小銭のために生活を見世物にすることであり、将来の選択肢がないことであり、金持ちに貧乏人と見下されることであり、自信を持たずうつむき加減に話すことである。

主人公のムラドは文字が読めるし大学にも通っている。スマホも持っている。日本人がスラムの住人と聞いてイメージするよりも豊かな様子に見えるが、その瞳は伏せられがちでオドオドしており、貧しい者の人生の閉塞感を体現している。

そんな彼が人生を大きく開き、飛び立つ様子を描いたのがこの『ガリーボーイ』である。

飛び立つ彼の翼の片方はラップの精神をムラドに説き、ラッパーとして手ほどきをする兄貴的存在のMC・シェールである。MC・シェールとの交流を通じて、ムラドは悩みながらもラッパーとして少しずつ歩みを進めていく。

そしてムラドのもう片方の翼になるのが、バークレー音楽大学に通うビートメーカーのスカイである。彼女との出会いを通じて、ムラドは表現の多様さを知ると同時に、自分が生きる社会の外に、信じられないほどの豊かさと様々な可能性が存在することを知る。

 

与える者としてのスカイ

スカイは恵まれた環境の女性だが、ムラドやMC・シェールの才能を認め、音楽活動を通じて彼らとフェアに付き合う。ムラドから見た彼女は驚くほど奔放で快活で魅力的な女性である。

またどうやら音楽が学問としてもてはやされる世界があることや、音楽活動が金を生む世界があることをムラドに教えるのもスカイだ。

彼女は才能と豊かさでもって人生にたくさんの可能性を持っているが、その風景を惜しみなくムラドにも見せてやる。彼女との出会いは、ムラドの視野を広げ自信を与えていく。

象徴的なセリフがある。

なぜこんなに自分に良くしてくれるのか。自分は貧しい人間なのに。と静かに問うムラドにスカイはこう返す。

お互いアーティストでしょう。出自とか育ちとか関係ある?

ムラドの重たげな声音に対し、あまりにも軽々としたスカイの様子は、差別や貧しさへの反抗を歌うムラド自身が、その社会の理不尽を無意識に心に内包していることを物語っている。

差別や格差は歴然と社会に存在するが、それを意識するのはいつだって弱い立場の人間だ。そして弱者はだんだんと無意識に頭を垂れ、自分の足かせを外す力を失ってゆく。

ムラドはスカイと出会うことで、自身を不自由にしている枷に気が付く。

スカイはムラドに有形無形のものを与えるが、恩着せがましいようなことは一言も言わない。どこまでも対等な人格者である。その様子は富める者の鷹揚さにもみえる。

 

「富める者」に奪われる物語

 本作が痛快なサクセスストーリーであることに異論をはさむ人はいないだろう。いろいろな感想を読んだが、ムラドの物語に喝さいを送る声はあれど、基本的にはそこに議論は生じていなかったように見える。

しかしヒロインのサフィナについてはその猛烈なキャラクターに賛否両論があり、ツイッターでも様々な感想が投稿されているのを目にした。

9月の上映は夫と一緒に鑑賞したのだが、鑑賞後の酒の場では「ムラドとサフィナは付き合い続けるべきか」という議論が一番盛り上がった。

こういう夢を追う男の物語では、ヒロインは優しく微笑む木漏れ日のような存在というのが定石じゃないのか。サフィナは木漏れ日どころか、少ない出番にも関わらず、物語を干上がらせるような灼熱のパワーを持ったキャラクターだ。

彼氏に色目を使った女を暴力で制圧するわ、嘘をついてその相手を自滅させるわ、親を出し抜いて好き勝手するわとやりたい放題である。

しかし、どうも私は彼女を憎めないのだ。

彼女の物語が「富める者」に奪われる物語だからかもしれない。ムラドの「富める者」に与えられる物語と対になっているように見える。 

サフィナもムラドと同じエリアに住んでいるが、ずいぶん裕福な様子だ。スラムの中でもこんなに経済的な違いがあるのだと驚いた。

大きな家に住み、スマホに加えiPadも所持しており、しかも失くしたと泣き付けばすぐに代わりが買ってもらえるような環境だ。彼氏のムラドとはずいぶん暮らしぶりが異なるようだ。

しかしである。そんな彼女も「貧しい」事が作中で描かれている。

ムラドの貧しさは経済的な理由で将来の選択肢が極端に少ないことに表れていたが、サフィナも同様に将来の選択肢が限られている。

彼女の「貧しさ」の理由は「女」であることだ。

彼女ほどの意思の強さと豪胆さをもってすれば、本当はもっといろんなことができるのかもしれない。スカイみたいに世界を股に掛けた生活もできるかもしれない。

しかし彼女にはその選択肢はない。女だから。

だから彼女の意思の強さや豪胆さは、親の目を盗んで彼氏とデートするとか、勉強を頑張って将来自分で稼げるようになるとか、それくらいのことでしか発揮できない。そしてそんなささやかな希望も、ちょっと吹けば消えてしまう蝋燭の炎のような危うさで維持できている。

しかし作中、彼女のささやかな希望は「富める者」の出現であっさりと奪われてしまう。

彼氏を作る自由、デートする自由、親公認で彼氏を家に呼ぶ自由、化粧する自由、おしゃれする自由、夜遊びに行く自由、自分の能力で社会に認められる自由

その「富める者」は 彼女が手にできないいろいろな自由でもって、彼女からあっという間に奪ってゆく。奪った意識も持たないままに。

激高したサフィナは、ある事件を起こす。奪われたことだけではなく、自らが持たない圧倒的な自由を目の前にした嫉妬によって、怒り狂ったように私には見えた。

 

弱者のサクセスストーリー

格差に翻弄され、与えられた、奪われたと感じるのは、いつだって弱い方だ。 

弱者が格差に挑むとは、どういうことなのだろう。

おこぼれを貰うためにすり寄る事だろうか。

嫉妬に燃えて殴りかかる事だろうか。

経済的に成功してスラムから出ていけば、ムラドは格差に勝ったことになるのだろうか。ある意味ではその通りだろう。しかし貧しさの中で心に付けられて取れなくなった「シミ」のようなものと向き合わなくては、真に格差に打ち勝つことはできないと、映画では描かれているように思われる。

ムラドはラッパーとして一人前になり、貧しきものを鼓舞してみせる。

彼の目線はもうオドオド下を向かない。口ごもることもない。しかし彼は生まれを恥じたり隠したりもしない。

ラストシーン、堂々と立つムラドの背景に、スラムのあばら家が浮かび上がる。それは彼が生まれを誇りながら、彼自身の言葉で格差に挑戦する姿を象徴しているように見える。

 

 

www.youtube.com

 

 

*1:ツインはあの日本のインド映画史に数々の伝説を作った大ヒット作品『バーフバリ』の配給

夏休みの幕開け

テスト明けということで、同居人の馬子と京都へ遊びに行った。

美術館へ行きたいという私の希望に沿って、アサヒビール大山崎山荘美術館へ行くことに。

前日から計画を立て、寝坊したので全力疾走してバスに乗って出発したのに、開館時間が現地に到着した一時間後ということに山崎駅についてから気がついて、仕方なく駅の周辺をぶらぶらと散策した。よくある話である。

 

山崎は非常に長閑な町だった。
それがどれくらいのものかというと、突然事故にあって死んでしまった私に脳が最後に優しい風景を見せているのではないかと錯覚するくらいの長閑さなのである。

蝉が鳴いていて、畑には幼稚園児が列を成して歩いていて、山が迫り、古くて何気ない社寺のある町だった。

 

一時間後にやってきた送迎バスに乗ってむかった大山崎山荘美術館も面白い場所だった。

もともと山荘だった建物に、安藤忠雄がデザインしたという半地下の展示室がくっついている構造で、その周りを庭園がぐるりと囲っている。

美術館としては規模が小さいほうだと思うが、展示物を見ながら客間のドアを開けて庭の池の蓮をながめたり、座り心地のいいソファーでくつろいだり、バスルームを覗いたりと、まるで人の家を探検しているような気分になれる。
小高い山の上にあるので、2階のカフェからの眺めは壮観だった。

庭園は四季折々の植物が植えられており、春には花が、秋には紅葉がさぞかし美しいだろうと思わせる反面、突然足が長くて人を不安定な気分にさせるうさぎの巨像が現れたりと、シンプルすぎない微妙なバランスが良かった。

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美術館には私たちと一緒に壮年男女の一団が入館しており、楽しげな会話をわいわいと繰り広げていた。
ああ、社会に出て働き出したら、もうあの位の年齢になるまでのんびりと平日の午前に美術館へ来るようなことはできなくなるんだなあ、と思った。

その後は京都駅でお好み焼きを食べてから、三条だとか河原町だとかのにぎやかなところへ行って買い物をしたり喫茶店でジュースを飲みながら可愛い女の子を眺めたりした。

どの店もファイナルセールだとか70%OFFとか、恐ろしい単語が並んでいて、箕面の田舎からのんびりと遊びに出た我々は動転した。そうしていつの間にか色んなものを買い込んでしまった。

買い物をしながら私たちはある既視感を覚えていた。
以前にも私と馬子は一緒に京都で買い物をし、場合によっては購入を見送って胸が引き裂かれそうな気分になったものだった。
しかし、あの時、あんなに迷いに迷った挙句買わなかったものを、今では私は思い出せないのだ。
結局、服一着買わずとも人生はさほど変わらないのである。

我々はそういう結論にいたったが、しかしその悟りを以ってしても物欲を打ち負かすことはできなかった。

買ったが負けて悄然と帰路に着いた頃、すでに茨木駅からの最終バスは出てしまった後だった。

仕方なく北千里まで回り道をして帰る途中、電車で乗り合わせたサラリーマンと、夏休みで遅くまで外出していたらしい親子を眺めて、最後の夏休みが始まるのだなあと思った。

 

追記

学生時代に書いた日記である。なんでもない内容だが懐かしく感じられ転載する。

私はもうあの日美術館から眺めたという壮観な景色を想い出す事ができないが、

こうやって記録しておいて、時折そっと昔の事を懐かしむのは良いものである。

 

なお本文中の絵は私が大山崎山荘美術館で見たウサギを思い出しながら描いた絵である。

ググればすぐ写真は手に入るはずだが、そのスクショを載せるのはなんか違うな、と思って記憶の中のウサギを描いてみた。

結果、同じ作家の作品ではあるが、どうも群馬県立館林美術館のエントランスのウサギと混乱している事が分かった。

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いいのだ。どちらも私の美しい想い出の中のウサギである。

【祝上映決定】『ジェントルマン』の見どころと 事前に知っておくべき たった一つのインド映画あるある

インド映画の秋到来

東京では毎年秋にインド映画上映イベントが開催されるため、首都圏のファンにとってお楽しみのシーズンだ。

今年も9月6日~26日まで、キネカ大森でインディアンムービーウィーク2019というイベントが開催される予定である。ここでインド東西南北の11作品が上映されるそうだ。

このイベントで私がかねてより日本で上映される事を切望していた、『A GENTLEMAN』というヒンディ映画が、『ジェントルマン』という邦題で公開される事が決まっている。

あまりに嬉しいので、この映画の好きな所をネタバレしない程度にまとめておこうと思う。

あとインド映画を見慣れていない人に1つだけこの作品を観る前に知っておいて欲しい事があるので、それもついでに書き添える。

 

以下、本国の公式予告編に含まれる程度のネタバレで進める。

www.youtube.com

 

見どころその1 主演俳優 シッダールト・マルホートラがくっそかっこいい

 

<blo" dir="ltr">『A Gr.com/167_th/statts.js" cシッダールト・マルホートラは1985年生まれのヒンディ映画俳優。

2012年に『スチューデント・オブ・ザ・イヤー 狙え!№1!!』で銀幕デビュー。この作品は日本でDVDがリリースされている、数少ないインド映画の一つ。

デビュー以来コンスタントに年1,2本の主演映画をこなしているようだが、日本で配給がついているのはこの一作だけである。

スラリとした体躯に筋肉質なボディ、セクシーなたれ目がチャームポイントである。 

『ジェントルマン』はそんな彼のカッコよさを鑑賞するための映画といっても過言ではない。

予告編を見てもわかる通り、堅実そうなビジネスマンと危険なスパイの2役を演じており、もうどこを切り取ってもシッダールトの魅力が噴出してくる、そんな映画である。

 

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この彼、勝手な推測でもし違ったらファンの皆さんに申し訳ないのだが、実はあんまりアクションとかダンスが得意じゃなさそうなのだ。それがいい。

こう、アクションに入る前に一瞬「がんばるぞ!」みたいな顔をする所が、かわいいのである。ぜひ注目してみてほしい。

 

 

見どころその2 ヒロイン ジャクリーン・フェルナンデスが美しすぎる

 

ジャクリーン・フェルナンデスも1985年生まれ。スリランカ出身ながらヒンディ映画の売れっ子である。

 見ての通りのゴージャス系の美女。

2019年にGAGAからDVDスルーでリリースされた『タイガーバレット』で、アイテムガールとしてダンスを披露している。

最近のインド映画では…と言えるほど私はインド映画に詳しくないのだが、女優が主役をはる作品も多くなってきたと言われている。

カングナー・ラーナーウトの『クイーン 旅立つわたしのハネムーン』とかヴィディヤー・バーランの『女神は二度微笑む』、最近だとザイラー・ワシームの『シークレット・スーパースター』などがその例だろうか。

でもジャクリーン・フェルナンデスはそういう演技派で鳴らす!という感じよりも、ゴージャスな美貌と大胆でセクシーなダンスでシナリオの粗を埋めるような、作品に華を添えるような、エンタメ路線の女優である。

日本にはゴリゴリの娯楽インド映画があまり入ってこないので、ジャクリーン・フェルナンデスが観られる機会は意外と貴重だ。

役柄もいいんだよね、上のツイートでも書いたが、平凡な彼氏にちょっと飽きているという設定。

最近私は、妙齢女性が結婚生活で悩んでたり独身を嘆いていたりするような生活感の溢れた漫画ばっかり読んでいるので、こういう豪快な設定が新鮮だし、最高。

 

見どころその3 ちょっとひねりのきいたアクションロマンス

本作の脚本と監督はラージ・ニディモールー&クリシュナDK。

誰やねん、となるかもしれないが、『インド・オブ・ザ・デッド』の監督と言えば、インド映画ファン並びにゾンビ映画ファンなら、ピンとくるかも…しれない。

www.youtube.com

「きっと、うまくいかねぇ!」というどこかで聞いたことのあるキャッチコピーを引っ提げて、

あまたの名作インド映画を差し置いてなぜか日本で早々に公開されたインド発のゾンビコメディである。

この映画は「ゾンビ映画」という、定型スタイルが確立されたジャンルそのものを面白がる、という、ちょっとひねりの効いた作りが特徴だった。

ゾンビ映画あるある」みたいなものと「インド映画あるある」みたいなものを意図的にわかりやすく混ぜてみて、その化学反応でゆるーく笑わせる。メタで気の利いたシナリオが魅力。

『ジェントルマン』もそのスタンスが引き継がれていると思う。

美男美女が登場するアクション映画という、もう何十年も繰り返されてきたジャンルの「あるある」を踏襲したり、わざと定石を無視してみて観ている側に突っ込ませるような、力の抜けた感じがしゃれている。

もちろん、そこはインド映画。エンタメとして全力を出して観客をもてなす!だけど、たまに外してみる、という緩急が心地よい。ビールなんか飲みながら、ニヤニヤ観たくなる映画である。

 

『ジェントルマン』を観るにあたって踏まえておくべきたった一つのインド映画あるある

インド映画にはいろいろ特徴があるが、一人の役者が1つの作品の中で複数の役を演じる事が多い、というのもその1つ。

例えば『恋する輪廻 オーム・シャンティ・オーム』や『バーフバリ』がわかりやすい例だろうか。

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『オーム・シャンティ・オーム』ではヒンディ映画のロマンスキング、シャー・ルク・カーンが、『バーフバリ」ではテルグ映画の王子、プラバースがそれぞれ一人2役をやっている。

ただこの二作は、生まれ変わりとか親子2代とか、同じ俳優が演じる二つのキャラクターの生きる時代が異なっているので、日本人にも受け入れやすい例かも。

実際、インド映画の一人二役はもっと込み入っている。

あんまりネタバレになる例は挙げたくないので、日本でリリースされていない作品から例をとらせてもらおう。

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上は日本未公開、シッダールト・マルホートラと『スチューデント・オブ・ザ・イヤー』で一緒にデビューしたヴァルン・ダワン主演の『JUDWAA2』という作品である。タイトルは『双子2』という意味らしい。

予告編を観るとわかる通り、主演俳優が同時並行で一人二役をやっている。

この作品も双子という設定なのでまあ説明は付くが、日本の映画だと、主演俳優が同じ時間軸で2役を演じるというのは、ちょっと珍しいのではないだろうか。

双子という設定なら、まだぎりぎり説明も付くが「そっくりさん」みたいな設定で一人二役がカジュアルに出てくるのが、インド映画の油断ならない所である。

一つの映画で好きなスターの2種類の演技が観られるとなると、ファンとしてはうれしい限りだし、制作側も何人も売れっ子俳優を起用しなくて済むので便利なのかもしれない。WIN-WINだ。

しかしこの一人二役が、日本人にとってはどうも慣れないとピンとこない気がする。

いくつか一人二役の作品を観たが、最初のころは「そんなんあり!?」という気持ちが先行して、その設定が明らかになって以降、集中して見られないと言う事もあったくらいだ。

『ジェントルマン』は上の予告編を観てわかる通り、シッダールト・マルホートラがゴウラヴという平凡なサラリーマンと、リシという危険な色男という二つのキャラクターを演じ分けている作品だ。

この二役を味わうのが本作の一つの楽しみなので、インド映画を見慣れていない方も、「インド映画では一人二役は普通」という予備知識を頭に入れて、ぜひ心置きなく楽しんでほしい。

ちなみにうちの夫はこの一人二役設定がうまく脳内処理できず斜め上の勘違いを起こしたことがある。

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おまけ 『ジェントルマン』の挿入歌

ガリーボーイ』でランヴィール・シンが自分のダンスシーンのラップを自分で歌っているというのは、今年のヒンディ映画の話題の一つだった。

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が、実は『ジェントルマン』の挿入歌の一部でシッダールト・マルホートラもラップを披露している。本当に一瞬だけどね。

 

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本作の予告編と撮りおろしのシーンを交えた色っぽいMVである。

予告編と合わせて、本編を観る前に気分を高めるために観ておいてもいいかも。

 

インディアンムービーウィークに期待!

インド映画はまだまだ日本に輸入されずらいジャンルである。

公式の供給が少ないので、最新作をチェックしたいなら独自にディスクを取り寄せて英語字幕で鑑賞するしかない、という状況だ。

そんな中、独自に日本語字幕を付けてイベントを再開する運営の方々にはいくらお礼を言っても足りないくらい。

ここでしか見られない作品も多いので、ぜひインディアンムービーウィークをお勧めしたい。

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初めて蛙を食べた日のこと

蛙を初めて食べた日のことを書こう。

あれは忘れもしない初秋の新宿。私は蛙を食べさせる店に向かっていた。
蛙は以前から是非口にしてみたいと思っていたのだが、それまでなかなかいい機会に恵まれる事がなかったのだ。

新宿の繁華な街並みの中になかなか味のある一角があり、その中に蛙を食わせる店があるという。
私は大体どこへ行っても不案内なのだが、東京などは殊更何が出てくるのか検討もつかず、おのぼりさんの面持ちで先行く人についていった。

目的の店はかなり風情のある佇まいで、私は2階の床が抜けて落ちてくるのではないかと少し心配しながら暖簾をくぐった。
そうして高めの椅子に腰掛けながら、私は自分がかなり危機的な状況に直面しているのではないかとやっと自覚するにいたったのだ。
2階の床が落ちそうだからではない。全く知らない土地の知らない店で、蛙という、食材としては未知の存在と対峙しなければならないのだ。
そして書くのを忘れていたが、この時一緒に店に入ったのは交際して2ヶ月ほどの年上の恋人だった。
初々しい歳の離れたカップルが蛙を食べる。最初は気丈に振舞っていたうら若い娘さんは、調理された蛙を前に堪らず「やだー、食べれないー!怖いよー!」などと可愛く叫ぶ。
これだ!
今こそまさに私の心の奥底に沈みすぎて深海魚の住処になっている「女子力」をサルベージして見せ付ける時なのではないか。私はそう閃いたのである。
しかし、先述したように、ここは全く知らない場所である。不安定な状況下で、今の今まで殆ど存在を忘れていた
「女子力」と「蛙の肉」
に向き合い、力を発揮させる事ができるのか。予測不可能な状況であった。

そんな事を目を光らせながら静かに考えている内に、「蛙の刺身」がわれわれの前に差し出された。補足すると、この店では蛙はから揚げか刺身のどちらで食べるかを前もって注文する事ができるのだが、この時は珍しいという理由から刺身をオーダーしたのだ。より「女っぽい」リアクションが取りやすいだろうという私の浅はかな計算も微妙に含まれていた。

そう、私の計算は全て浅はかなものだったのだ。出された刺身を目の前にして私は愕然とした。

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調理前は両手にも余る程の大きさであったろう食用蛙。今はすっかり捌かれて薄桃色の肉片となっている。それだけなら「この肉の、微妙な縞模様はなんなのだろう」とぼんやり考える余裕もあっただろうが、何を隠そう、――いや、隠されず目の前に据え置かれているのだが――この刺身「頭付き」だったのだ(写真参照)。

蛙の顔が、口が、目玉が、これほど大きいものだとは。
ぎょろりと出張った目玉はとにかく無視できない大きさで、何と言うか「生き物の目玉」の生々しい感じが、生気を失って明後日を向いていても爛々と伝わってくるのだ。

大変な衝撃に、脳内にストックされている限りの凄惨なイメージが私の脳内を駆け巡った。

私はどう反応していいものか判断できず、とりあえず客観的に見てみようと携帯電話で写真をとって画面越しに蛙の頭を眺めてみた。
どのように見ようが薄桃色は薄桃色で縞模様は縞模様で、目玉は目玉のままである。

次に私は、より客観的な意見を仰ぎ己の行動の指針としようと、蛙の写真を添付して同居人にメールを送ってみた。
しかしこの日の昼ごろに同居人は大陸に向かって神戸港空から船出してしまっており、返事が来る事はなかった(そして帰国一番に蛙の写真を受信する羽目になった)。

次に私は大の蛙好きで、「いつか一緒に蛙を食べたいね」と語り合った事のあるH子に写真を添付してメールをしてみようかと思い立った。
しかし、彼女が飼っていたイモリの愛らしい口元などを思い浮かべているうちに、こんな写真を突然送りつけたら嫌われてしまうのではないかと思い至って辞めた。
私は改めて、目の前の蛙に一人で立ち向かわなければならなくなった。

その瞬間である、皿の上の蛙の上半身が突然動き出したのだ。
腕をゆっくりと持ち上げ、苦しげに皿の外へ這い出そうとしたのである。
先ほどから、この皿の上の蛙が恨めしげな目をして飛び掛ってきたらさぞ恐ろしいだろうな、と考えていた私は、腰を抜かさんばかりに驚いた。
もう女子力だのなんだのと余裕をかましている場合ではない。怖い!!!
私はこの恐怖を周囲に伝えんと叫ぼうとした。その時、
「いやー元気だね。味わってあげてよ。命を食べるって事なんだからねー。」
さっきから一杯引っ掛けながらご機嫌にカウンターの向こうで料理をしていた店の大将が、突然しごくまともな言葉を言い放ったのだ。
私は身体をのけぞらせながらも、その言葉に妙に納得してしまい、叫ぶタイミングを逸してしまった。
「ひっ」という引きつった声がこぼれるにはこぼれたが、急に蛙を前にきゃっきゃと騒ぐ自分の姿が浅ましく思われ、私は箸を握ったまま苦しげな蛙の姿を凝視するばかりであった。蛙は皿から這い出す事もなく、皿の上で傾いたまま動かなくなった。

 桃色の肉片は、鳥のささ身を濃厚にしたような味で、美味であった。私は食物に不遜な態度をとり、心乱された自分を恥じた。
恥じたは恥じたのだが、その後われわれの前に差し出された吸い物に浮かんだ、半分になった蛙の頭はやっぱり箸でつつく事すらできなかった。

蛙に対する複雑な思いを抱えながら、私は隣に座っていた年上の恋人に、今日の事は忘れられないと思う、とポツリと言った。
恋人は、それは良かった。と返事をした。

以上が蛙を初めて食べた日の顛末である。

 

【追加】

学生の頃のブログ転載第2弾。何度も言えない若さと浅はかさの漂う内容であるが、ここの恋人とは現在の夫である。付き合ったばかりの高揚感が漂う。この頃はまだ大阪に暮らしており、初めての新宿飲みであった。

写真が小さいのは、当時持っていたガラケーで撮ったデータのためである。この店はもう現在は、生の蛙は出していないらしい。