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富める者は無邪気に与え、奪う~『ガリーボーイ』感想

 

ガリーボーイ』ついに日本で公開

2019年10月18日(金)にランヴィール・シン主演のインド映画『ガリーボーイ』が日本で封切られた。

インドでの公開から半年ちょっと。インド映画が本国での公開と同じ年に日本でも封切られるというのは異例の早さである。

配給会社も力を入れて宣伝しており、先行上映となった9月のジャパンプレミアには監督のゾーヤー・アクタルと脚本担当のリーマー・カーグティーが登壇。また出演者からの日本向けのコメントが流され、ファンを喜ばせた。さすが、「願えば叶う」のツインである。*1

 

 私は2月の在日インド人向けの自主上映会、9月のジャパンプレミア、10月18日の封切り当日と都合3回にわたって本作を鑑賞する機会を得た。何度も観なければ理解できないような解りづらい映画ではないが、観るごとに感想が更新されていき、新たな視点を得られたので、ここに感想をまとめておこうと思う。

以下、致命的なネタバレは避けるが、少し内容に触れるので、鑑賞前の方は注意されたし。

 

 

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主人公に翼を与えた二人の存在

ガリーボーイ』はある青年の目覚めの物語である。インドに実在する二人のラッパーDivineとNaezyにインスパイアされ作られたと言われている。

ムラド(ランヴィール・シン)は、雇われ運転手の父を持ち、スラムに暮らす青年。両親はムラドが今の生活から抜け出し成功できるよう、彼を大学に通わせるために一生懸命働いていた。しかしムラドは、生まれで人を判断するインド社会に憤りを感じ、地元の悪友とつるみ、内緒で身分の違う裕福な家庭の恋人と交際していた。ある日大学構内でラップをする学生MCシェール(シッダーント・チャトゥルヴェーディー)と出会い、言葉とリズムで気持ちを自由に表現するラップの世界にのめりこんでいく。そして“ガリーボーイ”(路地裏の少年)と名乗り、現実を変えるためラップバトルで優勝を目指す事を決意する。

映画『ガリーボーイ』公式サイトより

 実際にインドはムンバイのスラムであるダラヴィにセットを立てて撮影されたというムラドの居住地の様子は圧巻である。小さな家が軒を連ね、人がすれ違うのがやっと位の小道がその間を縫うように走っている。

映画ではムラドの生活を通じ、貧しいということがどういう事かを具体的に提示して見せる。

それは狭い家に家族で暮らすことであり、小銭のために生活を見世物にすることであり、将来の選択肢がないことであり、金持ちに貧乏人と見下されることであり、自信を持たずうつむき加減に話すことである。

主人公のムラドは文字が読めるし大学にも通っている。スマホも持っている。日本人がスラムの住人と聞いてイメージするよりも豊かな様子に見えるが、その瞳は伏せられがちでオドオドしており、貧しい者の人生の閉塞感を体現している。

そんな彼が人生を大きく開き、飛び立つ様子を描いたのがこの『ガリーボーイ』である。

飛び立つ彼の翼の片方はラップの精神をムラドに説き、ラッパーとして手ほどきをする兄貴的存在のMC・シェールである。MC・シェールとの交流を通じて、ムラドは悩みながらもラッパーとして少しずつ歩みを進めていく。

そしてムラドのもう片方の翼になるのが、バークレー音楽大学に通うビートメーカーのスカイである。彼女との出会いを通じて、ムラドは表現の多様さを知ると同時に、自分が生きる社会の外に、信じられないほどの豊かさと様々な可能性が存在することを知る。

 

与える者としてのスカイ

スカイは恵まれた環境の女性だが、ムラドやMC・シェールの才能を認め、音楽活動を通じて彼らとフェアに付き合う。ムラドから見た彼女は驚くほど奔放で快活で魅力的な女性である。

またどうやら音楽が学問としてもてはやされる世界があることや、音楽活動が金を生む世界があることをムラドに教えるのもスカイだ。

彼女は才能と豊かさでもって人生にたくさんの可能性を持っているが、その風景を惜しみなくムラドにも見せてやる。彼女との出会いは、ムラドの視野を広げ自信を与えていく。

象徴的なセリフがある。

なぜこんなに自分に良くしてくれるのか。自分は貧しい人間なのに。と静かに問うムラドにスカイはこう返す。

お互いアーティストでしょう。出自とか育ちとか関係ある?

ムラドの重たげな声音に対し、あまりにも軽々としたスカイの様子は、差別や貧しさへの反抗を歌うムラド自身が、その社会の理不尽を無意識に心に内包していることを物語っている。

差別や格差は歴然と社会に存在するが、それを意識するのはいつだって弱い立場の人間だ。そして弱者はだんだんと無意識に頭を垂れ、自分の足かせを外す力を失ってゆく。

ムラドはスカイと出会うことで、自身を不自由にしている枷に気が付く。

スカイはムラドに有形無形のものを与えるが、恩着せがましいようなことは一言も言わない。どこまでも対等な人格者である。その様子は富める者の鷹揚さにもみえる。

 

「富める者」に奪われる物語

 本作が痛快なサクセスストーリーであることに異論をはさむ人はいないだろう。いろいろな感想を読んだが、ムラドの物語に喝さいを送る声はあれど、基本的にはそこに議論は生じていなかったように見える。

しかしヒロインのサフィナについてはその猛烈なキャラクターに賛否両論があり、ツイッターでも様々な感想が投稿されているのを目にした。

9月の上映は夫と一緒に鑑賞したのだが、鑑賞後の酒の場では「ムラドとサフィナは付き合い続けるべきか」という議論が一番盛り上がった。

こういう夢を追う男の物語では、ヒロインは優しく微笑む木漏れ日のような存在というのが定石じゃないのか。サフィナは木漏れ日どころか、少ない出番にも関わらず、物語を干上がらせるような灼熱のパワーを持ったキャラクターだ。

彼氏に色目を使った女を暴力で制圧するわ、嘘をついてその相手を自滅させるわ、親を出し抜いて好き勝手するわとやりたい放題である。

しかし、どうも私は彼女を憎めないのだ。

彼女の物語が「富める者」に奪われる物語だからかもしれない。ムラドの「富める者」に与えられる物語と対になっているように見える。 

サフィナもムラドと同じエリアに住んでいるが、ずいぶん裕福な様子だ。スラムの中でもこんなに経済的な違いがあるのだと驚いた。

大きな家に住み、スマホに加えiPadも所持しており、しかも失くしたと泣き付けばすぐに代わりが買ってもらえるような環境だ。彼氏のムラドとはずいぶん暮らしぶりが異なるようだ。

しかしである。そんな彼女も「貧しい」事が作中で描かれている。

ムラドの貧しさは経済的な理由で将来の選択肢が極端に少ないことに表れていたが、サフィナも同様に将来の選択肢が限られている。

彼女の「貧しさ」の理由は「女」であることだ。

彼女ほどの意思の強さと豪胆さをもってすれば、本当はもっといろんなことができるのかもしれない。スカイみたいに世界を股に掛けた生活もできるかもしれない。

しかし彼女にはその選択肢はない。女だから。

だから彼女の意思の強さや豪胆さは、親の目を盗んで彼氏とデートするとか、勉強を頑張って将来自分で稼げるようになるとか、それくらいのことでしか発揮できない。そしてそんなささやかな希望も、ちょっと吹けば消えてしまう蝋燭の炎のような危うさで維持できている。

しかし作中、彼女のささやかな希望は「富める者」の出現であっさりと奪われてしまう。

彼氏を作る自由、デートする自由、親公認で彼氏を家に呼ぶ自由、化粧する自由、おしゃれする自由、夜遊びに行く自由、自分の能力で社会に認められる自由

その「富める者」は 彼女が手にできないいろいろな自由でもって、彼女からあっという間に奪ってゆく。奪った意識も持たないままに。

激高したサフィナは、ある事件を起こす。奪われたことだけではなく、自らが持たない圧倒的な自由を目の前にした嫉妬によって、怒り狂ったように私には見えた。

 

弱者のサクセスストーリー

格差に翻弄され、与えられた、奪われたと感じるのは、いつだって弱い方だ。 

弱者が格差に挑むとは、どういうことなのだろう。

おこぼれを貰うためにすり寄る事だろうか。

嫉妬に燃えて殴りかかる事だろうか。

経済的に成功してスラムから出ていけば、ムラドは格差に勝ったことになるのだろうか。ある意味ではその通りだろう。しかし貧しさの中で心に付けられて取れなくなった「シミ」のようなものと向き合わなくては、真に格差に打ち勝つことはできないと、映画では描かれているように思われる。

ムラドはラッパーとして一人前になり、貧しきものを鼓舞してみせる。

彼の目線はもうオドオド下を向かない。口ごもることもない。しかし彼は生まれを恥じたり隠したりもしない。

ラストシーン、堂々と立つムラドの背景に、スラムのあばら家が浮かび上がる。それは彼が生まれを誇りながら、彼自身の言葉で格差に挑戦する姿を象徴しているように見える。

 

 

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*1:ツインはあの日本のインド映画史に数々の伝説を作った大ヒット作品『バーフバリ』の配給