小さな星のように、影のように―二十一世紀ミャンマー作品集
東京オリンピックには興味がないし、夏には長めの休みを取って、今年は久しぶりにミャンマー旅行に行こう、なんて夫とずっと話していたのだが、春先からの騒動で、海外旅行など夢のまた夢、という状況になってしまった。
仕方ないとはいえ、かの国の空気を感じたくなり、久しぶりに南田先生の翻訳本を手に取った。
2008年から2104年の間に発表された16編の詩と、2002年から2014年の間に発表された14編の短編小説が収められている本書は、2011年の「民政移管」前後に書かれた、激動の時代の選りすぐりの作品集である。ミャンマー文学を日本語で提供できる人も場も限られているし、当時はある特定の要件に当てはまる外国人は、入国拒否されてしまう環境だった。そしてこの本の翻訳者である南田先生は、この頃はまさに入国できない時期が続いていたと記憶している。入魂の一冊と言っても過言ではないだろう。
愛を失う苦しみを綴った詩、SF、ユーモア、プロレタリアート、様々な日常の一コマなど、バリエーションに富んだ内容である。ケータイやインターネット、そして女の子の四文字名前、20世紀の文学では出てこなかった現代的なキーワードが印象的に配される。
私はリンタイの『青い心の人』という短編小説が気に入った。
主人公とある男の一晩の会話である。
週に何度か泊まりにやってくる「彼」が、ある日カメラを携えてやってくる。彼は一つの秘密を打ち明け、カメラを主人公に差し出し、ある依頼をする―――。
小市民のちょっとした日常を切り取った小説が多い中、生活の生臭さを一切感じさせないソリッドな雰囲気がかっこいい。
そして静かで不思議な物語だが、何となく洗練されたエロティシズムを感じさせる。この筆者の他の小説もぜひ読んでみたいと思った。
大学に上がって初めてミャンマー文学を読んだとき、主観を配して淡々と描写される日常風景や、ズダンと切り落とされるように終わってしまうストーリーを前にして、これは、私が今まで読んできた「物語」とは、かなり違うぞ、と戸惑ったものだった。
ミャンマー文学は、目の端なら光をとらえられていたのに、じっくり眺めようとすると見つけられなくなる小さな星のように感じられた。
それはビルマ、あるいはミャンマーの不遇な歴史と無関係ではないだろう。
本書の「解説にかえて」には、翻訳者によって、その近代史とビルマ文学の関係が簡潔に解説されており、こちらも見どころである。
ミャンマーが北朝鮮についで「報道の自由なき国」世界第二位になった2008年は、ちょうど私が現地に滞在していた時期だった。
誰それという大臣がどこそこを視察した、というニュースが連日1面を飾り、あとはネットを漂うカスみたいな海外ゴシップが並ぶ国営新聞をよく覚えている。新聞はそんな国営紙が二つだけだった。
厳しい検閲を潜り抜け、機能しないジャーナリズムに変わって異なる視座を読者に提供すること、ミャンマーの文学を私が難解だと思った理由は、ミャンマー文学が背負った重い使命と無関係ではないだろう。
ルーサンの『聖地にて靴と靴下の着用を厳禁する』という一編の詩には、ミャンマー文学を読み解くヒントが隠されている。
これは公共施設などに掲示されている注意書きや広告看板の文句を組み合わせた、現代的な詩である。
「本日ご利用の皆々様に幸いあれ」「手を出すな」「足を出すな」というどこにでもありそうな文句から、「きんまの唾を吐くな」「ここから先女性の金箔寄進を禁ず」という、いかにもミャンマーらしいキーワードの入ったものまで、4ページに渡って、メッセージがぎっしりと並べられている。こんな定型文を眺めているだけで、町の喧騒、寺院に入った時の足の裏の感覚、朽ちてゆく果実から漂う甘い香りが思い出されるので不思議なものだ。
この作品の注釈の一文に、翻訳者は以下の注釈を添えている。
本篇は公の場に実際に書かれている表示等を主として用いたコラージュである。禁止事項からはその行為が現実になされていることがうかがえる。
提示されたメッセージが、あえて語らないものは何なのか。
光ではなく、その下に落ちた影はどんなものか。
この詩の訳注は、ミャンマー文学全体にも当てはまる重要なカギだと思う。
解説では、民政移管後の2012年ごろから検閲が徐々に緩和されてきたという旨が書かれている。とはいえ今までの歴史を振り返れば、予断は許されないだろう。表現が自由を取り戻し、活気ある未来が来ることを願ってやまない。